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絶対に入り込んではいけない「境界線」が有ります。

アラン秀俊さんの叔母さまのお見送り

それは、突然にやって来ました。
たぶん・・・ご本人さえも、まさかと思っていたと・・・
周りは、驚きながらも、粛々とお見送りを済ませました。

私までもが、参加させていただきました。
そっと静かに、アラン秀俊さんの傍らで居ただけです。

 

 

 

私達が結婚した1977年に、まだ小学生だった女の子達は
立派なママ達に変身していました。
会うと、ピンクレディーの真似をして、楽しませてくれていました。

叔母さまの二人のお嬢さん(アラン秀俊さんの従姉さん)は
私より二つ年下と、四つ年下の、こちらも大変立派なママに変身していました。

それにしても・・・アラン秀俊さんの周りには、女子率高い。

叔母さまの為の「会」だからこそ、余計に私は静かに過ごしました。

 

 

 

実は、叔母さまとの「ご縁」は
私達の学生時代から、始まりました。
まだアラン秀俊さんの、お母さんと会う前からです(笑)

短大の二回生(関西だけなのか、二年生と呼びません)の9月に
アラン秀俊さんと、巡り合いました。
毎日会っていたくて
その頃「洋裁の授業の卒業作品の、テーラージャケット」の
制作をせずに、遊び呆けていました。
そうすると、当然ですが、卒業作品が出来ずに、卒業が危ぶまれ始めるのです。

卒業作品出来ていないので、卒業できそうにも無いよーーー

と言う、私に
アラン秀俊さんが頼んでくれて
その頃、「洋裁」を生業にされていた叔母さまに
私の制作途中の「ジャケット」を仕上げていただく事にして
大阪難波から、岐阜まで、二人で会いに来ました。
叔母さまは、快く引き受けてくれました。

お陰で、無事に短大を卒業できました(笑)
その上、しばらくは、母もその「ジャケット」を、家宝のように大切にしていました。
(今は、完全時効です)

短大を卒業してから、1年9ヶ月たった

1977年11月18日私達は結婚しました。
それから、正式に叔母さまになっていただけ
今日までの40年間、色々なコトが有っても
いつも、笑顔で全てを許してくれた叔母さまです。

 

 

が、やはり私にとっては「義理」の方々
「血縁関係」では無いので、特別な「礼儀」を持って、おつき合いをします。

「気」の使い過ぎをするわけでは有りませんが
必ず、アラン秀俊さんの一歩後ろに下がります。
これは、何が有っても貫きます。

大切なお母様を亡くされても、気丈にふるまっておいでだった、二人のお嬢様方に
ちょっとした「お礼」をしたくて
叔母さまに、お返しの出来ていなかった「気持」を乗せて
アラン秀俊さんにだけ、近々岐阜を訪ねて行ってもらいます。
ちょっとした「品」と、ちょっとした今後の「ヒント」を持って。

おしつけがましくならないようにと、祈りつつ

叔母さまが、その光景を喜んでくれますよーーーーに

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NagataYouko

金融機関に勤めた事も無いのに、46歳でファイナンシャルプランナーの資格取得に燃え、資格取得の勉強中に「お金の最高の活かし方」には「会社設立」が一番の近道と思い立ち、人生のパートナー「永田秀俊」に猛烈アタックして、秀俊50歳、陽子48歳で「独立起業」して、15年が経ちました。元事務員の経験も活かして「起業家のお助け隊」として、東奔西走の日々

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