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結婚当時(1977年)の結婚観の差が生み出したモノゴト 3

子供達との暮らし方にも、二人の育った環境の違いは、歴然でした。

永く続いた格式を重んじる「永田家」では、家の中での「決め事」は全て一家の主のアラン秀俊さんでした。もちろん、岐阜県関市の本家では、アラン秀俊さんのお父さんの永田孝雄さんでした。

お風呂に入る順番から始まり、それはそれは細部に渡り、家業が有って、どの人が家族かの区別のつかない私の実家とは大違いでした。驚きとおののきばかりの日々でした。

 

子供の成長につれ、永田秀俊家の大枠が出来始めた

生活の中心が子供になって来たからです。それはそれで二人ともが望んだかたちだったからです。

そして、格式高い家の長男に嫁ぐのに、「作法知らずで育てた娘です。10年だけは別居させてやって下さい」と、頭を下げてくれたのは、母でした。
実のところは「母のみぞ知る」ですが、「作法知らず」は正しく、私の考え方の大元は、母から受け継いだモノですから(笑)

その別居10年の間に、子供とともに成長できたコト、というよりも「子育てから学んだコト」は、今の私にとって何にも換え難い財産になりました。
元々備わっていた「稼ぐ力」と「モノを観る視点」、それに加えての「道具の使い方の工夫」が出来始め、先に必要になる子供の「教育資金の準備」の為に、お外に出て「働きたい!!」に気付くのは、そんなに時間がかかりませんでした。

そして、本家でアラン秀俊さんが御台所に立つのは、絶対に有っては成らないコトでしたが、私達四人家族の中では、年に数回「たこ焼きパーティー」と言って、ほぼ一日中御台所で、ウイスキーと煙草を片手に、たこ焼き返しのピックを片手に、子供達と私に「たこ焼き」を創ってくれる日が有りました。
それと、頻度は少なかったのですが、外食に出かけたら、メニューを見て食べるモノを決めていたのも、止めてもらい、子供達に選ばせてあげるようになりました。

これは、当時小さなお財布護りながら暮らした、私達四人家族の、ほんの少しの楽しみでした。

子供達の「やりたいコト」を伸ばしてやりたい!! その為の「お金」は、私が稼ごう!!そう決めて、子供が成長して、育児時間が減った分だけ、お外で働き始めました。それは、次男が小学二年生になる前の、三月から始まりました。元々働くコトが嫌では無かったのと「永田陽子」と書かれた給料明細(パートの医療事務員)が、天にも舞いあがる程、嬉しかったです。

 

あくまでも補助輪の私でした

お外で働く為に、アラン秀俊さんが付けた「条件」が有りました。それは「今までの生活パターンを崩すコトなく働いてこれるなら」でした。当時は、まだまだ「人生設計図」を「目」で観えるようには出来ずに、一生懸命に言ってましたが、「目の前」に意識を置いている人相手には、至難の技でした。

私が働いていただける「お金」は「将来資金」だったので、私にしては珍しく「貯めるコト」に専念していました。小さな補助輪が動き始めて、その「お金」を残せるようになって、少しだけ「将来不安」を減らすコトも出来始めました。ただ・・・その分「時間」の余裕が減り始めました。そんなコトは、解っていたハズですが、つけられた「条件」に対して、やけに正直に頑張り続けていました。
それを察知したのが次男で「月始めは大嫌いだーーー」と、時々叫んでいました。医療事務のお仕事は一ヶ月の集計をして「レセプト(診療報酬)」を月始めに提出しなければいけなかったので、学校から帰って来た息子達の話を聴くのもそこそこに、おやつと宿題を済ませて、再び職場に戻っていたからでした。

 

 

生活のパターンを換えないという約束は、徐々に私の「時間」を奪い始めました。
そして、別居の約束の期限の10年も徐々に近づいて来ていました。

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NagataYouko

金融機関に勤めた事も無いのに、46歳でファイナンシャルプランナーの資格取得に燃え、資格取得の勉強中に「お金の最高の活かし方」には「会社設立」が一番の近道と思い立ち、人生のパートナー「永田秀俊」に猛烈アタックして、秀俊50歳、陽子48歳で「独立起業」して、15年が経ちました。元事務員の経験も活かして「起業家のお助け隊」として、東奔西走の日々

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